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壁越しの溺愛ボイス
壁越しの溺愛ボイス
作者: 海野雫

プロローグ 壁の向こうの声

作者: 海野雫
last update 公開日: 2026-01-01 11:00:48

 深夜零時を過ぎていた。

 黒川涼介くろさきりょうすけは、マンションのエントランスで鍵を取り出しながら、重い息を吐いた。肩が鉛のように重い。目の奥がじんじんと痛む。今日も終電ギリギリだった。

 誰のために。何のために。

 そんな問いが浮かぶたびに、涼介は意識的にそれを押し殺してきた。考えても仕方がない。自分で選んだ道だ。総合商社の海外事業部。入社六年目。周囲からはエリートコースだと言われる。だが、涼介自身はその言葉を素直に受け取れたことがなかった。

 エレベーターのボタンを押す。四階。築十五年の中規模マンション。新入社員時代に借りて以来、六年間ずっとここに住んでいる。

 都心から電車で四十分。同僚たちの多くは会社近くの高級マンションを選ぶ。だが、涼介にはこの距離が必要だった。仕事とプライベートを切り離すため、そして誰にも詮索されないためだ。

 自分の私生活を、誰にも覗かれたくない。

 自分が何者であるかを、誰にも知られたくない。

 エレベーターが四階に着く。長い廊下を歩きながら、涼介は無意識に隣の部屋――四〇三号室のドアに目をやった。

 一か月ほど前、あの部屋に誰かが越してきた。引っ越し業者のトラックを見かけたし、何度か廊下で物音を聞いた。だが、顔を合わせたことは一度もない。それでいいと、涼介は思っていた。隣人と親しくなる必要などない。

 四〇二号室の扉を開ける。真っ暗な部屋。電気をつける気力もなく、涼介は靴を脱いだ。

 1LDKの部屋。一人暮らしには十分な広さだが、最低限の家具しかない。ここは寝に帰るだけの場所だ。六年間住んでいるのに、愛着らしい愛着もない。

 スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。鏡の前に立つと、疲れ切った自分の顔が映っていた。

 整った顔立ちだと言われる。長身で、黒髪短髪で、精悍な印象だ。だが、涼介自身はその評価に違和感を覚えていた。外見が整っていることと、人生がうまくいくことは、まったく別の話だ。

 今日のプレゼン資料も、そうだった。

 シンガポールの新規プロジェクトに関するプレゼン資料を、涼介は一週間かけて作り上げた。市場分析、競合調査、収益予測を盛り込んだ資料だ。徹夜もした。休日も返上した。なのに、発表したのは同期の山下だった。

『黒川が作った資料だけど、発表は山下に任せよう。黒川、お前は裏方が向いてる』

 上司の言葉が、まだ耳の奥にこびりついている。

 悔しいと思う自分がいる。だが、その悔しさを表に出すこともできない。言い返すこともできない。自己主張が苦手なのだ。昔からそうだった。

 わかっている。わかっているのに、変えられない。

 涼介はワイシャツのボタンを外し、浴室に向かった。シャワーを浴びる。熱い湯が疲れた体を叩く。

 湯気の中で、涼介は目を閉じた。

 仕事の虚しさ。評価されない苛立ち。それだけでも十分に疲れるのに、涼介には、もうひとつ常に心の奥に重しのように沈んでいるものがあった。

 --俺は、ゲイだ。

 その事実を、涼介は誰にも明かしていない。

 気づいたのは高校生の頃だった。女子には何も感じないのに、男子の声や仕草に、心臓が跳ねる。大学に入り、何人かの男性と関係を持って、確信に変わった。自分は男が好きだ。女性には性的な興味を持てない。

 今は「これが自分だ」と認めている。だが、認めることと、公にすることは別だ。偏見の目で見られるかもしれない。出世に響くかもしれない。そんな恐怖が、涼介を縛っていた。

 だから、隠している。

 常に「演じている」感覚がある。本当の自分を隠し、社会が求める「普通の男」を演じ続けている。その疲労は、仕事の疲れとはまた別の種類の疲れだった。

 シャワーを止め、バスタオルで髪を拭く。下着だけを身につけ、涼介はベッドに倒れ込んだ。

 明日も朝から会議がある。眠らなければ。そう思いながら目を閉じる。疲れているのに、神経が高ぶって眠れない。嫌なことばかりがぐるぐると頭の中を巡る。

 その時だった。

 声が、聞こえた。

 涼介は、思わず目を開けた。

 空耳だろうか。このマンションの壁はコンクリート製で、隣の生活音などほとんど聞こえない。六年間住んでいて、隣人の声を聞いたことは一度もなかった。

 だが、今――確かに何かが聞こえた。

 涼介は息を殺した。

 静寂の中で、耳を澄ませる。深夜の静けさ。エアコンの低い唸り。遠くを走る車の音。それ以外に――。

『今夜も来てくれたんだね……ありがとう』

 聞こえた。

 壁の向こうから届くそれは、囁きだった。低く、甘い、男の声。普通の人なら気づかないほどかすかな音。だが、涼介の耳は、その声をはっきりと捉えていた。

 心臓が、跳ねた。

 涼介には、人より聴覚が鋭敏だという自覚があった。子供の頃からそうだった。他の人には聞こえない音が聞こえ、かすかな物音まで拾ってしまう。便利なこともある。だが、大抵は煩わしかった。

 そして、声に、異常なほど反応してしまう体質だった。

 声フェチ。そう自覚したのは、大学生の頃だ。好みの声を聞くと、体が熱くなる。思考が鈍る。理性が溶ける。それは性的な興奮と直結していて、涼介はずっとその体質を持て余してきた。

 低くて落ち着いた声に弱い。囁くような声に弱い。息を含んだ声にも弱い。コントロールできない。自分でも気持ち悪いと思う。だが、どうしようもなかった。

 今、壁の向こうから届く声は――まさに、涼介の「好み」のど真ん中だった。

『疲れてるでしょう……大丈夫、僕がそばにいるから』

 囁きが、鼓膜を撫でる。

 低すぎず、高すぎない。中低音の柔らかな声だ。息を含んでいて、まるで耳元で直接話しかけられているかのような錯覚を覚える。温かくて、優しくて、包み込むような声だ。

 涼介は無意識に、壁に近づいていた。ベッドから体を起こし、壁に手をつく。冷たいコンクリートの感触。その向こうに、声の主がいる。

 ASMR。その言葉が、涼介の頭をよぎった。数年前から流行っている囁き声の配信で、何度か聴いたことがある。だが、どの配信者の声も、涼介にとっては「惜しい」ものばかりだった。

 だが、今聞こえている声は、違う。

『頑張ったね、今日も。えらいよ』

 頑張った。

 涼介の目から、不意に涙がこぼれた。

 自分でも驚いた。何を泣いているんだ。知らない人の声を聞いているだけなのに。配信か何かの、不特定多数に向けた言葉なのに。

 だが、その「頑張ったね」という言葉が、涼介の心に深く刺さった。誰にも言われたことがなかった。頑張っていると認めてもらったことがなかった。「黒川は優秀だから当然」。そういう評価ばかりで、努力を労ってもらったことがない。

 だから、たとえ自分に向けられた言葉でなくても、こんなにも心が揺さぶられる。

『ゆっくり休んで……僕の声、聞こえてる?』

 聞こえている、と心の中で答える。

 涼介は壁に額を押し当てた。冷たいコンクリートの感触が、熱くなった肌に心地いい。

 聞こえすぎている。

 この声が、体の奥に染み込んでいく。神経の隅々まで浸透していく。頭の中がぼんやりとして、嫌なことが遠ざかっていく。この声だけを聴いていたい。この声に包まれていたい。

 そう思った瞬間、涼介は自分の体が反応していることに気づいた。

 下腹部に熱が集まっている。下着の中で、すでに半分ほど硬くなっている。

 ――馬鹿か、俺は。

 涼介は自分を罵った。隣人の声で興奮するなど、どうかしている。壁越しに盗み聞きしているようなものだ。気持ち悪いし、変態だ。

 そう自分を責めながら、涼介は壁から離れられなかった。

『今日も一日、お疲れ様。嫌なことあった? あったよね、きっと。でも大丈夫。僕が癒してあげる』

 まるで、自分のことを言われているようだった。

『力を抜いて……そう、いい子だね』

 いい子。

 そう言われた瞬間、涼介の体がびくっと震えた。

 誰かに褒められたかった。認められたかった。「いい子」だと言ってほしかった。子供じみた願望だと、自分でもわかっている。二十八歳の大人が、「いい子」と言われて喜ぶなんて、滑稽だ。

 だが、涼介の体は正直だった。

 下腹部の熱が、さらに増していく。下着の中で、もう完全に硬くなっている。

『おやすみ……また明日ね』

 声が、途切れた。

 静寂が戻る。涼介は荒い息をつきながら、壁にもたれかかった。体中が熱い。汗が滲んでいる。心臓がバクバクと音を立てている。

 終わった。声が止んだ。

 ほっとした。

 同時に――ひどく、寂しくなった。

 もっと聴いていたかった。あの声を、もっと。

 涼介は自分の欲望に愕然とした。隣人の声を盗み聞きして、興奮して、もっと聴きたいと願うなんて。変態にもほどがある。

 だが、体の熱は鎮まらなかった。

 下腹部の硬さは、まだ収まっていない。むしろ、声が止んでからの方が、欲望が強くなっている。あの声を脳内で再生しながら、体が勝手に反応している。

 涼介は、逡巡した。

 やめておくべきだ。こんなことをしたら、もう後戻りできない。隣人の声で自慰をするなんて、自分でも倫理的に問題があると思う。

 だが――。

『頑張ったね、今日も。えらいよ』

 あの声が、頭から離れなかった。

 涼介は、ゆっくりと手を下ろした。

 下着の中に手を入れる。自分自身を握った瞬間、低い呻きが漏れた。熱い。硬い。先端からは、すでに透明な液が滲んでいた。

 あの声を思い浮かべる。低く甘い囁きだ。耳の奥をくすぐるような響きだ。

『大丈夫、僕がそばにいるから』

 手が動く。ゆっくりと上下に。

『いい子だね』

 その言葉を脳内で再生した瞬間、涼介の体がびくんと跳ねた。

 あっけなかった。あまりにもあっけなく、涼介は果てた。

 声を殺して、痙攣するように達する。手の中に、熱いものが溢れる。何度も、何度も、脈打つように吐き出される。

 荒い息をつきながら、涼介は天井を見上げた。

 快感の余韻が、体の隅々まで広がっている。頭の中が真っ白になって、何も考えられない。

 気持ちよかった。今まで自慰をした中で、一番気持ちよかった。

 その瞬間、罪悪感が津波のように押し寄せてきた。

 何をやっているんだ、俺は。

 二十八歳にもなって。隣人の声で自慰をするなんて。顔も知らない人の声で、こんなに興奮して、あっという間に果てるなんて。

 気持ち悪い。最低だ。変態だ。

 涼介は汚れた手を見つめながら、自己嫌悪に沈んでいった。

 ティッシュで手を拭い、汚れた下着を脱ぐ。新しい下着に履き替え、涼介はベッドに横たわった。

 これからは気をつけよう。イヤホンをして音楽を聴きながら眠ろう。そうすれば、壁の向こうの声など聞こえない。

 そう自分に言い聞かせながら、涼介は知っていた。

 ――また、聴きたくなる。

 あの声を。あの甘い囁きを。壁の向こうから届く、禁断の音を。

 イヤホンをしても、きっと外してしまう。あの声が聴きたくて、夜が待ち遠しくなる。そして壁に耳を押し当てて、あの声を貪る。

 そういう自分の姿が、ありありと想像できた。

 怖い。

 でも、止められない。

 あの声には、涼介の何かを狂わせる力があった。理性も自制も常識も、すべてを溶かしてしまう力が。

 眠りに落ちる直前、涼介の脳裏にあの声が蘇った。

『僕の声、聞こえてる?』

 聞こえている。

 聞こえすぎている。

 だから――もう、逃げられない。

 深夜一時を過ぎていた。涼介は夢の中でも、あの声を追いかけていた。低く、甘い、囁くような声。顔も名前も知らない、壁の向こうの隣人の声。

 この声が自分の人生を変えてしまうなど――涼介はまだ、想像すらしていなかった。

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